日々探訪
京都東山「東福寺」
京都第一日赤病院の口腔外科の検診で行ったとき、幸いにも治療が早く終わりましたので、ひさしぶりに「東福寺」を探訪してまいりました。
「東福寺」は、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。
近代に入って規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。
かつては身の丈五丈の釈迦如来座像を有し、山城国(現在の京都府の一部)では雲居寺大仏・方広寺大仏(京の大仏)に次ぐ高さを有する大仏として、威容を誇っていた。
中世においては「南都(東大寺)の半仏雲居(雲居寺)、雲居の半仏東福(東福寺)」「南都の四半仏」と謳われるなど、身の丈十六丈の東大寺大仏・身の丈八丈の雲居寺大仏と並び称されていた。
東福寺は宗派の雲水たちが修行する専門道場である一方で、紅葉の名所として著名な観光スポットであり、秋には数十万もの観光客が訪れる。
域内には多くの国宝、重要文化財に指定された名建築を有し「東福寺の伽藍面(がらんづら)」とも呼ばれる。
(ウィキベティアより引用)
「東福寺」歴史
京都随一の紅葉の名所として知られる京都東山に位置する「東福寺」は、紅葉のピークは朝から受付に長い長い~行列ができるスポットです。
東福寺の名前は、奈良最大寺院・東大寺と奈良で最も盛大を極めた興福寺のようになってほしいと願いを込め、「東」と「福」を一字ずつ取って名付けられたと言われています。
その名の通り、いくつもの大伽藍(だいがらん:建物の大きな寺)が瓦屋根を並べている様が圧巻で素晴らしいことから伽藍面(がらんづら)とも称され、京都の代表的なお寺となりました。
延応元年(1239年)に九條道家が仏殿を建立したことから始まった、臨済宗東福寺派の大本山なんです。
禅宗伽藍を代表する室町最古の三門や、浴室、東司(厠)、など室町時代の禅僧の生活を知る貴重な建築が残る禅寺なんですよね。
通天橋や、重森三玲作庭の方丈庭園など境内の自然美も圧巻なんです。
境内を流れる渓谷に架かる通天橋は、美しい青もみじで覆われているんですよね。
壮大な伽藍を誇る臨済宗東福寺派の大本山で、鎌倉時代の初期、当時摂政を務めていた九條道家の発願によって建立された。
建立に際しては、1236(嘉禎2)年より1255(建長7)年まで、実に19年の歳月を費やして完成した。
栄華を誇っていた最中、1319(元応元)年、1334(建武元)年、1336(延元元)年と相次ぐ火災のために大部分を焼失。
しかし、最後の火災があった1336(延元元)年から4ヶ月後には復興が始まり、1346年(貞和3)年、10余年を経て再び偉観を誇った。
禅宗寺院の格式を表した「京都五山」(鎌倉時代に北条氏によって導入)に、1334(建武元)年の火災の直前には列せられていたため、再建後には完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなった。
摂政九條道家は創建にあたって、奈良の最大の寺院である[東大寺]と奈良で最も盛大を極めた[興福寺]から「東」と「福」の字をもらい、[東福寺]とし壮大な伽藍を築いた。
周囲には普門院や公明院など25の塔頭(たっちゅう)が建ち、その規模の大きさを物語る。
塔頭とは住持、高僧などが寺院の敷地内に建立した子院のことで、東福寺では80以上の塔頭が建ち並んだ時代があったといわれている。
所在地 京都府京都市東山区本町十五丁目778
山号 慧日山
宗派 臨済宗東福寺派
寺格 大本山 京都五山第四位
本尊 釈迦如来
創建年 嘉禎2年(1236年)
開山 円爾
開基 九条道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。
太政大臣・九条良経の次男。
官位は従一位・准三宮、摂政、関白、左大臣。
九条家3代当主。
光明峯寺殿、峯殿を号す。
通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。
京都九条通に東福寺を建立した。
鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経の父。
正式名 慧日山 東福禅寺
文化財 三門、宋版太平御覧、絹本著色無準師範像ほか(国宝)
常楽庵、禅堂、偃月橋、絹本著色釈迦三尊像、木造地蔵菩薩坐像ほか(重要文化財)
庭園(国の名勝)
公式サイト 臨済宗大本山 東福寺
阪急電鉄でのアクセス
阪急電鉄⇒⇒⇒京都河原町⇒⇒(徒歩約7分)⇒京阪祇園四条⇒⇒(約5分)⇒京阪東福寺、下車⇒⇒(徒歩約10分)⇒東福寺
JR/市営地下鉄でのアクセス
JR/地下鉄⇒⇒JR/市営地下鉄⇒各線/京都駅⇒⇒JR奈良線(約3分)⇒JR東福寺、下車⇒⇒(徒歩約10分)⇒東福寺
京阪電車でのアクセス
京阪電車⇒⇒⇒京阪東福寺、下車⇒⇒(徒歩約10分)⇒東福寺
京阪電車⇒⇒⇒京阪鳥羽街道、下車⇒⇒(徒歩約8分)⇒東福寺
バスでのアクセス
京都駅からのアクセス
京都駅⇒⇒京都市バス(88系統・208系統、約15分)⇒バス停東福寺、下車⇒⇒(徒歩約4分)⇒東福寺
四条河原町からのアクセス
四条河原町⇒⇒京都市バス(207系統、約14分)⇒バス停東福寺、下車⇒⇒(徒歩約4分)⇒東福寺
東山三条からのアクセス
東山三条⇒⇒京都市バス(202系、約18分)⇒バス停東福寺、下車⇒⇒(徒歩約4分)⇒東福寺
祇園からのアクセス
祇園⇒⇒京都市バス(202系統、207系統、約14分)⇒バス停東福寺、下車⇒⇒(徒歩約4分)⇒東福寺
車・観光バスのアクセス:https://tofukuji.jp/access/
東福寺「三門」(国宝)
東福寺三門は、室町時代の禅宗寺院の姿を今に伝える貴重な遺構である。
仏殿の前に建つ門であり、一般には山門と表記されるが、東福寺では三門と表記する。
寺院によって「山門」と記すところもあるが、東福寺の門は五間三戸、つまり、柱と柱の間が五つで門扉が三つあり、「三門」と表す。
これは「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無作門(むさもん)」を意味し、悟りに通ずるために、通らなければならないとされる三つの解脱(げだつ)の境地だと言われる。
東福寺の様々な見所の中で、三門は室町時代に建立されたもので、三門の中で日本最古、高さは24mの知恩院に続き、南禅寺の三門とほぼ同じ高さです。
約22mです。
過去3回焼失していて、現在の三門は、室町時代に足利義持指導により建立されたものです。
三門に関しても、この東福寺の三門が京都三大三門に入る場合もあります。
一般には、三大三門は、
知恩院の三門
南禅寺の三門
東本願寺の御影堂門または仁和寺の仁王門と
いわれているようですが、東福寺の三門を入れる人もいます。
三門では内部も外の景色も残念ながら撮影禁止でした。
三門の上では、天井画や釈迦如来像、十六羅漢像などを観ることが出来ました。
三門(さんもん)は、門の形式で、中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものである。
寺院によっては形式に関わらず「三門」と名付けられているものもある。
山門とも呼ぶが、これは、寺院がもっぱら山林にあり山号を持つからという。
「三門」の名をもつ楼門のある寺院には臨済宗東福寺や浄土宗知恩院などがある。
これに対して曹洞宗永平寺などの楼門は「山門」の名である。
禅宗寺院の大寺には南大門にあたる総門と中門にあたる三門がみられ、寺の領域に入る「山門」の名をもつ門とは別に「三門」がある寺院もある。
東福寺の場合には、三門とは別に、境内南方に鎌倉幕府の六波羅探題の門を移築したと伝えられる「六波羅門」がある。
東福寺 「本坊庭園八相の庭」(ほんぼうていえんはっそうのにわ)
昭和を代表する作庭家「重森三玲」(しげもりみれい)によって造られました。
多くの禅寺の中でも、四周(東西南北)に庭園がめぐらせてあるのは東福寺 本坊庭園八相の庭だけであり、八相の庭がある東福寺は紅葉の名所としても有名です。
東福寺の方丈には、東西南北に4つの庭園が造られており、八相成道(はっそうじょうどう・釈迦の一生を表す8つの段階や局面のこと)にちなんで通称・八相の庭と呼ばれています。
八相の庭は1939年(昭和14年)、作庭家・重森三玲によって完成された庭園で、2014年(平成26年)に国指定名勝に登録され、「国指定名勝 東福寺 本坊庭園」と改められました。
八相の庭を造る際、東福寺より重森三玲に出された条件があります。
それは、本坊内にあった材料はすべて廃棄することなく再利用することでした。
これは、禅の教えである「一切の無駄をしてはならない」から提示されたと言われており、かなり厳しい制約と考えられます。
しかし、重森三玲はこれを逆手に取り、鎌倉時代の庭園をベースにモダンな枯山水(かれさんすい:水を用いず岩や砂などで山水を表現した日本庭園様式)を完成させました。
東庭は北斗七星・南庭は京都五山・西庭は大市松・北庭は小市松とそれぞれテーマが異なり、苔・白砂・岩の絶妙な配置と洗練された美しさが多くの人を魅了する庭園となっています。
南庭
南庭は白砂で荒波を描き、その中に巨石を用いて4つの神仙島(しせんじま:仙人が住む島)である蓬莱(ほうらい)・方丈・瀛洲(えいしゅう)・壺梁(こりょう)を表現。
210坪の広さに6mに及ぶ巨石を横たえ、周囲に大きさの異なる石をいくつも立てて絶妙に配置する斬新な造りは、これまでの石組手法とは異なる物でした。重森三玲が石をバランス良く組み立てるのが得意だったことがよく分かる庭園となっています。
西庭(井田の庭)
西庭は大きな市松模様(いちまつもよう:格子模様の一種で2色の四角形を交互に配した模様)が特徴的な庭園で、「井田の庭」(せいでんのにわ)と呼ばれています。市松模様はサツキの刈込と砂地で造られており、区切りには敷石の縁石(へりいし)に使われていた葛石(かずらいし:社寺など基壇の上端縁にある縁石をかねる長方形の石)を再利用。また、北庭と繋がりを表現するために市松が斜線状に組んである点もポイントです。重森三玲が市松模様にした理由は、日本古来の伝統的な模様で市松の美に惹かれていたことや、葛石を自然の山を模した築山や石組、樹木などを植えた場所に使うのが難しいなどの理由があると推測されます。
北庭(小市松模様の庭)
北庭も苔と板石で作られた小市松模様が見事な庭園。板石には勅使門(ちょくしもん:勅使[勅旨を伝えるために派遣される使者]の通行に使われる門)から、方丈に向けて敷きつめられていた切石が再利用されています。北庭の始まり部分は西庭の大市松から繋がっており、だんだん板石部分が少なくなりながら東北方向の谷に消えていくという表現方法です。作庭当時は、白河砂と苔の仕切り線が曲線で表現されていたり、庭園では珍しいぼかしを表現するために白河砂の上に板石を置いたりといった重森三玲独特の表現を垣間見ることができましたが、苔の繁茂(はんも:草木などが盛んに生い茂ること)により白河砂部分は完全に苔で覆われています。
東庭(北斗の庭)
東庭は「北斗七星」を表現した庭園で、山内にある東司(とうす:寺院における便所)で使用されていた礎石(そせき:建物の柱の沈下を防ぐために下に据えておく石)を再利用して造られています。円柱を天空に浮かぶ星とし、7つの石を高・中・低と高さを変えて表現。円柱を使う手法は、第七代小川治兵衛(おがわじへい:近代日本庭園の先駆者とされる作庭家)が有名ですが、円柱を使って星座表現をしたのは日本庭園史上初と言われています。
京都五山
京都五山(きょうとござん)とは、臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院。鎌倉時代末期に創設されたが、その内訳が確定したのは室町時代、足利義満の代になってからである。
五山の制度はもとは南宋の寧宗のころにインドの五精舎十塔所にならって創設されたものである。
鎌倉幕府は既存宗門などの既存勢力に対抗するため新興の臨済宗を保護する政策をとり、政争や戦乱によって勢力下に入った荘園や領地を御家人に分け与える一方、一部を寺社領とし、幕府の領地も含めてその管理を禅寺に委ねていた。
五山の起源
鎌倉末期に始まる五山制度には明らかでない点もあり最初に五山と称されていた寺院も諸説ある。
今枝愛真の説によると最初に鎌倉幕府によって五山と称せられていたのは鎌倉の諸禅刹で「当初の五山は鎌倉のみに限定されていた」としている。
今枝によると建武の新政のもとで京都の大徳寺と南禅寺が五山の第一位の寺格とされ、さらに建仁寺や東福寺などの諸寺が五山に加えられるようになったとしている。
暦応4年(1341年)、足利直義の評定により、第一位を建長寺(鎌倉)と南禅寺(京都)、第二位を円覚寺(鎌倉)と天龍寺(京都)、第三位を寿福寺(鎌倉)、第四位を建仁寺(京都)、第五位を東福寺(京都)とし、準五山に浄智寺(鎌倉)を含めたとする。
ただし、鎌倉時代の創設当初は鎌倉と京都で一緒に五つの寺を五山に定めていたとする説もある(室町時代に京都と鎌倉に分けて五山が定められたとみる)。
小此木輝之は鎌倉時代の五山を、建長寺、円覚寺、寿福寺、建仁寺(京都)、浄智寺と推定している。
なお、足利義詮が将軍職のときにも五山の変動がみられた。
五山の確定と幕府
室町時代の足利義満が将軍職の至徳3年(1386年)、南禅寺を別格として五山之上とし、京都の天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺をそれぞれ五山に決定しその後の五山制度の根幹となった。
「五山十刹」という場合、別格寺たる南禅寺を筆頭に、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の「五山」と、等時寺、臨川寺、真如寺、安国寺、宝幢寺、普門寺、広覚寺、妙光寺、大徳寺、龍翔寺の「十刹」の総称をいう[3]。
室町幕府は五山禅寺に対して不入権や諸役免除などを認める一方、五山禅寺は幕府の事務の代行や上納金などの財務支援を行う関係にあった。五山の禅僧には宗教活動を行う西班衆と寺院の経理や荘園の管理を担う職能集団の東班衆がいた。
室町時代、幕府との関係が近い五山禅寺は朝廷との関係が近い比叡山延暦寺や南都興福寺と対立関係にあった。大和国を支配する興福寺は奈良への禅寺の進出や臨済宗の僧の入国を認めなかった。また、天龍寺落慶法要への天皇行幸では延暦寺から異議が唱えられ(1345年)、南禅寺の関銭をめぐる園城寺との対立(1367年の南禅寺楼門事件)では延暦寺は全面的に園城寺を支援した[3]。
五山禅寺は幕府の訴訟制度や対中貿易などを通じて勢力を伸長していった。
しかし、応仁の乱で各寺は壊滅的な被害を受け、東班衆の基盤が失われた一方、各地では守護大名の力が強まって五山の荘園管理は難しくなり関所の自由通過権なども失われた[3]。東班衆の去った荘園では守護大名が国人に管理させる守護請が多くなった[3]。また、五山勢力が去って空白地となった北陸地方には一向宗の勢力が進出し新たな拠点を築いた[3]。
京都五山の寺格
- 南禅寺 – 別格
- 天龍寺 – 第一位
- 相国寺 – 第二位
- 建仁寺 – 第三位
- 東福寺 – 第四位
- 万寿寺 – 第五位
なお、足利義満の意向により、応永8年(1401年)3月5日に相国寺を第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われたが、義満没後の応永17年(1410年)2月28日に元に戻された。
今日では京都五山=京都の禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、それは決して正しい解釈ではない。京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している(詳しくは大徳寺の項目を参照)。また、妙心寺は大内義弘に肩入れしたことが原因で義満の怒りを買い、寺領すらも没収されていた。
再興を果たすのは江戸時代からである。